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コラムNo.19

玉島協同病院
  清 水 順 子

父が亡くなって1年になる。父が倒れたのは11年前、高校3年になる娘が小学校1年生の秋だっ た。脳外科の担当医師から、今どき珍しい典型的な高血圧性脳出血です、と言われた。父が倒れた後、診察室の机の中から飲みかけの降圧剤のヒートが出てきて、血圧が高かったんだということを初めて知った。倒れる何年か前に、急に都合が悪くなった人の替わりに無理やり連れられて行った日曜日の人間ドックでは、不摂生な生活の割には、ほとんど問題ない結果だったと母から聞かされていたので安心していたのだ。

父は県北の町で、1軒しかない開業医だった。父は男1人女2人の3人兄弟の長男で、父の実父は青函連絡船や樺太と稚内を結ぶ船の機関士だったので、父は旧制中学を出るまで北海道で育った。実母は三味線と唄の上手な綺麗な人だった。実父の長兄は元軍医で支那事変に従軍していたが、退役後は故郷に戻り多少の百姓もしながら開業していた。長兄には子どもがなかったため、父は家と医師を継ぐため養子になった。

私が子どもの頃、父の診察室兼処置室は患者さんで一杯だったが、皆一様に腰痛や膝痛で注射をしていた。お産や虫垂炎の手術もしていた。入院室が何部屋かあったが、一杯になると知らない人が座敷に寝ていたり、生まれたばかりの赤ちゃんが居間のコタツに寝ていることもあった。夜もよく起こされていた。祖母が畑で野菜を作り、母は入院給食を作ったり、薬を包んだり診療の手伝いをしていた。レセプトは家族で書いていて、私も習いたてのそろばんで計算していた。診療の合間に母屋に父が来る時はレントゲンが撮れるように赤黒い色のゴーグルをかけていた。いつもクレゾール臭かった。医院の小さな看板には内科・外科・産婦人科・放射線科と書かれていて、私の大学時代の友人たちは、面白がって記念撮影をしていた。

退院した車椅子の父を連れて、母と妹とドイツの森にドライブに行った。妹が「家族そろって出かけるのって初めてかもしれない」とぽつんと言ったが、そんな生活が嫌で私は父の跡は継がず勤務医となったのだ。それからも時々、父と家族で旅行に行ったが、小さかった娘はとても不機嫌だった。やっと休みで母親と過ごせると思っていたのに、お母さんはおじいちゃんの世話ばかりしていると泣いて困らせた。もし私が長男だったら倒れた父の跡を継いだだろうか。

失語で過ごした11年間、父はどんな思いで私を見ていたのだろうかと思う。冗談が好きで、いつも人を笑わせたり驚かせたりしていたが、酔うとしつこく、私が大人になってからは真面目な話をしたことはほとんどなかった。大学の夏休みに一緒に往診に行った時「往診は断らずに行くように」と言われたのが唯一父の教えかもしれない。「お百姓の腰痛と膝痛が一向に減らないのはなぜか。機械化してもローンのため休めないという背後にある社会の矛盾がわかるか」と言って科学的社会主義の勉強をしていたが、意外にも、遺品の中に県医師会の生涯教育の修了証も何枚もあった。父はバイオリンなど多趣味だったが、映像と蒸気機関車とには最後まで没頭していた。そこには父なりのポリシーがあったということは後で知った

私のロールモデルはある意味父なのかもしれないと思うことがある。父の葬式は少し寂しい気も したが、私の家で家族葬をした(夫に感謝)。今でも悔やまれるのは、お棺の中に靴を入れ忘れたことだ。裸足で歩いているのかと時々思い出してしまう。

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