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コラムNo.70

感謝をこめて

まえだ診療所
  前 田 典 子

医師になって32年が経ち、31歳になる娘と29歳になる息子がいます。

そう、私は大学卒業の年に学生時代に知り合った夫と結婚し、その年に長女を出産した。関西医科大学卒業と同時に岡山に帰り、岡山大学第2内科に入局し、9月より研修医として国立岡山病院に赴任、10月に結婚と慌ただしく日々が過ぎていきました。そして今でも鮮明に覚えています。研修医としてスタートした矢先、その年の冬、病棟を歩いていて急に気分が悪くなった時のことを。つわりでした。妊娠が判った時はこのまま仕事が続けられるかどうか一抹の不安を覚えましたが、夫の全く意に介さない何とかなるさの根拠のない楽観さにより本当に何とか乗り越えられた気がいたします。また、看護師さんが姉、母のように接してくれたことがうれしかったですね。患者さんの死体解剖に立ち会う際、“腹巻にこれを入れておきなさい”と手鏡を渡してくれたことがありましたが、このようなさりげない気遣いが支えになりました。産前産後3カ月のみお休みし、仕事に復帰しました。夫は麻酔科医として高知県に単身赴任となり、私は実家で生活することにしました。帰りが深夜になることもたびたびでしたが、全面的な両親のバックアップで安心して仕事に臨むことができたことは幸いでした。しかし、果たしてこの当時の母親としての私はこれでよかったのであろうかという疑念は今でも脳裏から離れません。ただ、次第に、思春期からさまざまな葛藤を抱えた長女からさまざまなことを教わることができ、自分を成長させてくれたという思いに変わってきました。全く無関心だった仏教に関心を持たせてくれ、河合隼雄という素晴らしいユング心理学者にも巡り会えました。私は、はるかに全体との関係性の中に生きており縁起的世界の中に生きている存在であるという考えのもと、思うようにはならない子育てを通じて『私』は少しずつ変わってきたように感じています。昨年の5月11日、母の日に、長女は結婚しました。結婚式で、これまでの想いをこめて、夫と二人でさだまさしの「命の理由」を娘にプレゼントしました。私の拙い40年ぶりのピアノの伴奏で夫が詰まりながら歌いました。二人の想いは伝わったように思います。

勤務医を10年経て、地元、妹尾に父が開業していた山崎医院に戻り今に至っています。父とは、父が80歳になるまで約17年間一緒に働いたことになります。昭和41年1月、父が故郷の妹尾に内科医院を開業し、来年でちょうど50年目となります。その節目を迎える1年前、今年の1月3日、父、山崎良平は85歳で人生の幕を静かに閉じました。思いがけない突然の別れで悲しいことではありましたが、私にとってとてもスピリチュアルなものとなりました。おおげさですが、見失いかけていた人生の土台、意味を再発見させてくれ自分を見直すきっかけとなりました。これまで私を束縛していた何かが体からするりと抜けて大きな存在に包まれるような感じを覚えました。初めて、心から、自分が医師という職業に就いてよかったと素直に思えたのです。外来で父の死を知った患者さんがその場で涙される姿を目の前にし、私も一緒にもらい泣きで、たびたび外来が中断しました。看取りに関わることが多くなり、常々、死生観やスピリチュアルケアについて考え悩んでいたところでしたが、父の死は自分のスピリチュアルを気づかせてくれ患者さんの涙は私自身を癒してくれました。

1歳になる前に父親を亡くした父は苦学の末、旧制六高に入学し、その後医学の道に進み、昭和41年から約半世紀、愚直なまでに実直に町医者としての人生を全うした人でした。近所の方々や知人が私の知らない父との思い出を語ってくださいます。このように父のことを慕ってくれる人たちのいる地元でかかりつけ医として働くことのできる幸せを改めて感じています。柳田邦男さんが生物学的な「肉体的生命」と、「精神的いのち」のことを話されています。父の死は、「人は死んだらすべて無になる」のではなく「精神的いのち」が、残された人のその後を生きる心の糧になっていくことの事実を教えてくれました。すなわち、自分がこれから医師として、人として、自然体に「生きる」心の糧になってくれました。

心から父にありがとうと感謝したいと思います。

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