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コラムNo.91

今までを振り返ってみて…

岡山中央病院、セントラルクリニック伊島 乳腺外科 今田 孝子

現在、深夜の1時15分、そしてこの原稿締め切りの5日前…。子供たちに計画的に勉強するようにと小言を言っているが、自分もできてないと反省した。先日、高1の長男の懇談があったが「私はもう少し積極的に勉強していた」などと言ったら担任の先生に「お母さん、過去のことはきれいに見えるんですよ」と皮肉を言われたが、振り返ってみると確かにそうかも…と思えてきた。

〈医学部合格まで〉

私は子供の頃、母と同じ幼稚園の先生になりたいと言っていた。中学生の頃からか、「家庭の医学」を見るのが好きで、新聞やテレビで見た病気を「家庭の医学」でよく調べていた。その頃から医学に興味があったのかもしれないが、医師になりたいと決めたのは高1の時である。急性虫垂炎で手術することとなり初めて総合病院に行った。入院中に院内をうろうろしていた時、総合病院の外来風景を見てすごくかっこよく思えた。田舎の娘が初めて東京にきて驚いたようなものだ。「こんな総合病院で働きたい…」とミーハーな思いから医学部進学を決意、しかしこつこつ勉強するくせはついておらず現役では惨敗。1浪してなんとか岡山大学医学部に合格できた。浪人の1年は本当によく勉強し、苦しかった。しかし、この1年間は今でも私の心の支えとなっており、苦しい時はあの浪人時代の頑張りを思い出し、自分は絶対に乗りこえられると言い聞かし励ましている。

〈外科医をやめかけたけど…〉

6年生になり進路を考えるようになると、全身を診れる科がいいと考え、内科、外科、小児科で迷った。もともと内科系に行くような気がしていたのに、何を血迷ったか外科を選んだ。そして国立岩国病院で初期研修をしていたが、外科でも一般外科、呼吸器外科、心臓血管外科、小児外科をまわるうちに、何か専門性を持ちたいと考えるようになった。

その後、三原赤十字病院で後期研修をしたが、外科医は私をいれて4人、夜中の緊急手術に入っても休むことなく次の日も通常に仕事、食道癌など長い手術もあり疲れ果て、外科をやめたいと思い出した。3年間の研修を終え、大学に戻るタイミングで皮膚科に転科しようかと考えていたところ、医局の都合で急遽3カ月早く大学にもどることとなり、皮膚科転科はそのままFade outしていった。その数カ月後に結婚し、新婚旅行から帰ったら広島市民病院行きが決まっていて驚いた。このころ外科から乳腺外科が分かれ始めたころで、広島市民病院は乳腺外科があり症例も多いので、女性外科医として乳腺外科を勉強しておくのはいいだろうとの医局の配慮があったのだと思う。

〈乳腺外科の道を進み始めて〉

広島市民病院での研修期間中に第1子を妊娠し、つわりがあまりにひどく5カ月で市民病院をやめることとなった。つわりで実家に帰らせてもらっていたのに、それに甘えて連絡もせずそのままずるずると休み、周囲の先生には大変な迷惑をかけてしまった。その後、しばらく上司の先生は学会で会っても目を合わせてもらえなかった。本当に非常識な自分であったと反省している。その後、大学院生となり、子供が2歳になるまで香川の実家に子供を預けて研究と当直のアルバイトをした。平成15年に現在の職場である岡山中央病院に赴任した。主人は県外に単身赴任していたため、香川に住む私の両親に週に3~4日泊まり込みで来てもらい、子育てを手伝ってもらった。最初は乳腺外科だけでなく一般外科もしていたので、緊急手術や子供の急な病気の時は、ファミリーサポートも利用した。一番困ったのが子供がインフルエンザにかかった時で、さすがにファミリーサポートのシッターさんも預かるのを渋ったが、どうしてもと頼み込んで預かってもらった。病院のスタッフも協力的で、本当に周囲の支えがあったから仕事を続けられたのだと思う。女性の仕事と子育ての両立が問題になっているが、周囲の柔軟な考えやサポート、そしてサポートされる側も感謝することが大切だと感じる。

〈今の抱負〉

昨年、思い切ってニューヨークに娘と二人で行ったのを機に、残りの人生、もっといろいろなことに挑戦しようと思うようになった。そこで今年は、高校生の交換留学生のホームステイを5日間引き受けた。仕事が忙しい私には無謀な挑戦であったが“welcome party”や宮島で“もみじまんじゅう作り体験”をしたりした。休む暇がないほど忙しかったが、終わった後は達成感があった。これからもいろいろ挑戦して達成感を積み重ねていきたい。

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