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コラムNo.92

私の医者道

丹羽病院 伊原 直美

岡山市東区にある丹羽病院に勤務しています。今年5月で、赴任後まる5年になりました。産科主体の診療を行っておりますが、産婦人科一般を扱う仕事をしています。

このコーナーの記事はいつも楽しく拝読させていただいています。このような私にも投稿依頼をいただき、いったい何を書こうかと思案に暮れましたが、大学卒後まもなく30年ということで、現在に至るまでの経緯について改めて振り返ってみることにしました。

昔から生物学が好きで、高校生時代、獣医になろうかと考えていた時期もありました。しかしヒト以外との会話はやはり苦手でありまして、ヒト以外の動物との意思の疎通は困難ということで却下。

医学部に進学し、ポリクリで産婦人科を回り分娩見学をした際、自分でもなぜだか分りませんが涙がポロポロと溢れ出たのを覚えています。私たちの時代は大学卒後すぐに志望科へ入局ということで、あまり他科の選択肢を考えることもなく産婦人科の道へ。

大学医局で2年間、2カ所の関連病院で1年ずつの計4年の研修医期間を経て専門医試験受験というのが普通で、大学で1年、その後岡山済生会、新居浜住友別子病院で1年ずつ研修医としてトレーニング、そして4年目は大学に帰局し研修の仕上げを行うはずでしたが、私は大学ではなく岡山市内の病院に赴任しました。研修終了時にはほとんどの場合、臨床的な知識もスキルもある程度の域に達し、自信がついてくるころと思われますが、私の場合は真逆でありまして、すこしずつ高くなってきていた鼻が根元からポッキリと折れたような感覚に陥っていました。さまざまな症例を経験するうち、「自分には何の臨床的能力もないし患者さんにとって何の役に立つことも出来ない」と思うようになっていたのです。

1年間勤めたところで「もう一回勉強しなおそう」と思い、卒後5年目に大学院に進学、分子生物学の勉強をさせていただきました。自分は臨床には向いていないのかもしれない、という錯覚に陥っていた時期もありましたが、無言でマイクロピペットを手にひたすらRNA、DNAなどという全く目に見えない世界を相手にするのは、想像をはるかに超え本当に大変でした。

お母さんラットの帝王切開に明け暮れ、胎盤のストレス蛋白の研究をするなかで、私自身にもかなりのストレスが発生し、臨床より基礎研究の方が「もっと向いていない」ことに気付きました。学位を取得するまでかなり長時間を要しましたが、やはり自分は臨床が好きなのだと再認識できたのは大きな収穫でした。

大学院でのリサーチ中は大学近隣の病院に勤務していましたが、学位取得後、鳥取市立病院に赴任、11年もの長きにわたりお世話になりました。私は幸いなことに、最初からどの赴任先でも指導医、上級医にはとても恵まれていて、本当にたくさんのことを教授していただいておりましたが、鳥取では基本的なところから広く様々なことを丁寧に教わりました。

やっと少し余裕ができ、仕事も楽しくなってきたと思えるようになったところで、気が付くとあっという間に自分もずいぶんトシをとっていました。親の高齢化もすすみ、両親のそばにいたいと思うようになり岡山へ戻ってまいりました。そして、ご縁があり現在の職場に赴任、まだまだ至らないことばかりですが、これまで培ってきたことをもとに仕事をさせていただいている次第です。

産科の仕事は昨今の産科医療事情を鑑みても、かなり厳しくストレスフルなものがあります。ストレス蛋白の研究でいかにストレスが身体にとってよくないか身をもって思い知らされた私ですが、運動不足とストレス解消のため、スキあらば病院近くのフィットネスクラブに泳ぎに行きます。全くの自己流ではありますが、1時間くらいゆらゆら泳いでいます。ときどき病院に急に呼び戻され、濡れネズミ状態で駆けつけることもあるのですが(笑)。

少し時間に余裕があるときは、車を運転するのが大好きなのでドライブがてら美味しいパン屋さんめぐりに出かけています。美味しいものを食べ、泳いで身体も鍛え、我ながら“元気なオバサン”を自負しています。

産婦人科、特に産科に携わる医師の減少に伴い、各地で「お産難民」が発生しています。岡山県南東部の皆様にとって、微力ながら少しでもお役に立つことができればという思いで日々奮闘しております。

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