岡山県医師会

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岡山県医師会の歴史

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新生日本医師会の誕生と岡山県医師会

終戦後、米軍司令部は戦時下の国民医療法に基づく日本医師会を、強制加入の特殊法人から任意設立・認意加入の専門団体に改めるよう迫っていた。

これに対し、ときの日本医師会長中山寿彦は日本医師会改組審議会を設立し14人の委員を指名したものの、従来の組織を温存するため実質的な進展は見ないまま時を稼いでいる状態であった。一方、関西では2府20県で関西医師連盟を組織し国民医療法の廃止を協議していた。また、関東東北では東北医師連盟が組織され医師会の任意設立が決議されるといった、活発な動きが見られていた。

こういった情勢に岡山県が立ち遅れていることを憂い、川崎祐宣と西村伊勢松は榊原亨に日本医師会岡山県支部長への就任を要請した。医師会活動の経験のなかった榊原は熟慮の上これを承諾し、当時の日本医師会岡山県支部長・掛谷令三に会い事態を説明してその了解を得たうえで、1946(昭和21)年1月4日、第4回臨時総会で新医師会長(岡山県支部長)に選出された。

日本医師会岡山県支部長に就任した榊原は、予想される米軍司令部の旧体制解散命令を待たず速やかに新生日本医師会を組織すべきとの決議を行ったうえで、理事加賀呉一の原案による日本医師会改組期成岡山県医師会改組案を作成した。榊原はこの改組案を持って単身上京し、連合軍総司令部C・F・サムス大佐(のちに准将)に直接面談して案の内容を説明し、修正を加えて事前の了解を取り付けた。

同年11月1日、岡山県医師会支部長会議が開催された。岡山市支部長西村伊勢松の動議により、23名の支部長が発起人となって岡山県医師大会を早急に開催することとし、先の医師会改組案を決定した。

11月8日、日本医師会改組期成岡山県医師大会が開催され、西村の開会挨拶の後、13人の熱のこもった会員演説に続いて議事が行われた。その結果「吾人は国民医療法の即時撤廃を政府に要請し以て自主的医師会の結成を期す」に始まる大会宣言を採択するとともに、集まった医師の総意に基づいて日本医師会改組期成岡山県医師会改組案を決定した。

ここにおいて、それまで医師会改組手続きにおいて最も立ち遅れていた岡山県が一躍全国の先頭に立つこととなった。

11月19日、日本医師会第6回臨時総会が開催された。ここで先の日本医師会改組審議会が作成した医師会改組要綱案について審議されようとしたが、榊原は会員の総意によって選出された新しい委員会で審議するべきであるとの緊急動議を提出した。当初榊原亨以外の全員がこれに対し反対を唱えたが、長時間による激論の末、この緊急動議は全員の賛成するところとなった。

しかし当日出席していた都道府県医師会長には、新生医師会改組委員としての資格がないことが指摘され、新たに各都道府県から一名ずつ委員を選出し改めて医師会改組委員会を開催することが決定された。

12月9日、日本医師会第6回臨時総会の決定を受けて、新たに各都道府県から選出された委員による改組委員会が開催された。以後東京選出の鏑木正雄を委員長として審議を重ねた。

この委員会とは別に、連合軍総司令部のサムス公衆衛生福祉局長により、医療関係有力者による13人委員会が設けられていた。榊原もその一員であったが、医師会のみならず医療制度全般を協議する中で、岡山県医師会の発想になる医師会改組の構想を詳細に説明し、これを基本とすべきことを主張して認められた。

翌1947(昭和22)年5月22日、鏑木委員長による新生日本医師会改組委員会は、新生日本医師会設立要綱、設立手続き、および会則案を決定して解散した。

これを受けて同年8月13日、新生日本医師会設立準備委員会が設置され、榊原が委員長に選出された。そして同月末の日本医師会代議員会で選挙手続きを経て、そのまま新生の日本医師会執行部に移行することとなった。その時の榊原の挨拶の一部を紹介する。

「(前略)医師会は開業医だけの医師会でもない。学者だけの学会でもない。自己の権益だけを守ろうとする会ではない。医師会に入っても何の利益もないというような言葉は、口にするさえ恥ずかしいことだと思う。医師会は自分自身の持っている全知全能を、人類のために惜しみなく与える聖なる霊場である。それが医師の天職なのだ。(以下略)」

しかしながら、8月29日に突如米軍司令部による公職追放が医師会役員にも適用されることが通告され、榊原委員長名を以て「昭和17年国民医療法施行後、昭和22年までの日本医師会の会則上の役員、及び都道府県医師会の支部長(副支部長以下は非該当)は、新制医師会の役員たることを自発的に辞退すべきこと」という要望を都道府県医師会に伝え、全医師会がそれを受け入れることとなった。

1947(昭和22)年11月1日、新制社団法人日本医師会(会長・高橋明)の設立に合わせ、全国の県、郡市医師会は一斉に新生医師会として船出した。官制医師会では、県医師会は日本医師会の岡山県支部、各郡市医師会は岡山県支部の傘下に置かれたが、新制度では日本医師会、県医師会、郡市医師会はそれぞれ独立した組織となった。当時、県下の郡市医師会は26であった。

以上のように、戦時下の制度における日本医師會岡山県支部長に就任したばかりであるにもかかわらず、新生日本医師会誕生に際して一貫して強力なリーダーシップをとり続け、わずか2年足らずでその実現にこぎつけた榊原亨の目覚ましい活躍は、特筆に値するものである。

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