TOP > ピックアップコンテンツ > 岡山県医師会の歴史 > 藤原 弘 会長時代
1990(平成2)年2月に開催された第121回臨時代議員会で藤原弘が無投票で次期会長に選出され、新執行部が決まった。新泰雄会長、野崎達夫理事、小坂二度見理事、相浦正人監事は退任。
第122回定例代議員会が同年4月開かれ、新執行部がスタート。藤原会長は、冒頭の挨拶で①会員の要望や苦悩をよく聞く②地域が医師会に何を求めているかを探り、特に福祉への対応を重視する③日医との疎通を図る―を所信として披露した。
(*は新任)
第122回定例代議員会(1990年4月)で勤務医対策の一環として、勤務医部会を新設することが承認された。まず勤務医名簿の作成と意識調査を行い、2481人の勤務医を把握したが、医師会入会者は55%であった。
検視業務が増加する状況下、県警から要請を受け岡山県警察協力医会が同年8月発足した。会員216人、会長は仁科桂一。
「社会保険診療テキスト」再刊。社会保障部が、会員の保険診療上の留意点を整理し、適正な保険医療を促すことを目的に1964年に初版を発刊して以来、改訂を重ね1990年3月、第7版を刊行した。
※1990(平成2)年3月竣工式が行われた日本医師会館(東京都文京区本駒込)で第82回日医定例代議員会(4月1、2日)が開催され、羽田会長が4選された。本会の永瀬元会長が代議員会議長に再選、新(あらた)前会長が理事に選出された。
1991年4月、第125回定例代議員が開かれ、佐久間議長を再選、松田和雄理事の岡山県病院協会長就任による退任で補欠選挙が行われ、高取正昭が当選した。
同年9月、勤務医部会(部会長・寺本滋=岡山大教授)が発足。全国で22番目。この時点で日医は会員約13万人中、40%が勤務医であった。
※同年10月、岡山県健康づくり財団発足。岡山県予防医学協会、結核予防会岡山県支部、岡山対ガン協会、岡山県衛生会の保健関係4法人を解散・統合して新たに「岡山県健康づくり財団」としてスタート。
※新生日本医師会誕生に目覚しい功績があり、国会議員、元日医副会長、元岡山県医師会長として活躍した榊原亨は1992(平成4)年1月27日、92歳で逝去、本葬及び告別式が県医師会と心臓病センター榊原病院の合同葬として3月7日、岡山市の国清寺で行われた。故人の遺徳を偲び、会葬者は東京をはじめ全国から約800人が参列した。藤原葬儀委員長(岡山県医師会長)の告別の辞をはじめ、長野岡山県知事、羽田日医会長(代理・新日医理事)、出月康夫日本外科学会長、折田薫三岡山大医学部第一外科教授、故人の門下生代表として松田和雄岡山県病院協会長らが弔辞を述べ、その輝かしい功績を称えた。
1992年2月に開催された第127回臨時代議員会で藤原会長が再選された。選考委員会推薦による候補者以外に立候補者はなく、全員一致で候補者の当選が決まった。川口正光、高取正昭、木村郁郎各理事は退任。
(*は新任)
岡山県医師会学術奨励賞が1992(平成4)年、本会設立45周年を記念して制定された。第1回の受賞者は、10月の選考委員会で岡山大学医学部第二内科研究生・磯島浩二、川崎医科大学胸部心臓血管外科・正木久男講師、岡山市立市民病院内科・宮井正博副部長の3人に決まった。
岡山県医師会設立45周年記念式典が1992年11月15日、岡山市の岡山国際ホテルで盛大に挙行された。村瀬敏郎日医会長(代理・糸氏日医常任理事)、長野県知事ら多数の来賓、本会会員約160人が出席した。記念式典に続き、橋本龍太郎元大蔵相の「医療問題について」、森亘日本医学会会長の「生命を考える」と題する特別講演が行われ、引き続き祝賀会が華やかに催された。記念事業として創設された県医師会学術奨励賞の第1回の授与式と受賞講演も行われた。
※中央医界では同年4月、第86回日医定例代議員会が日本医師会館で開かれ、引退を表明した羽田会長の後任には村瀬敏郎副会長(東京)が選出された。また、議長選挙に永瀬正己は立候補せず、浜西寿三郎(兵庫)が当選した。
※10月、県知事選で長野士郎が6期連続当選。
会員福祉対策として「ドクターバンク事業」が1993(平成5)年度から開始された。近年、会員の高齢化を迎え、医業の継続、斡旋など医師の無料職業紹介事業の要望が高まっていることを受け、会員またはその紹介による求職者と求人者をドクターバンクに登録し、両者を斡旋することとした。
藤原会長が死去。1990(平成2)年4月に会長就任以来、会の運営のみならず、日医でも特に学校保健分野で活躍してきたが、1993(同5)年春から体調不良を覚え、6月結腸がんの手術を受けた。一旦職務に復帰したが再入院、11月7日永眠した。享年75歳。12月15日、岡山県医師会葬が岡山衛生会館三木記念ホールで挙行された。永山克巳葬儀委員長が会長の業績を称え、別れを告げた後、大内厚生相(代読)、長野知事、村瀬日医会長、橋本衆議院議員(代読)らが弔辞を奉げた。
藤原会長は、特に学校での心疾患に関心を抱き、副会長時代には県内全校を対象とする心電・心音図解析システムを完成、「岡山方式」として注目された。
学校で突然死が発生した場合、死因究明のため剖検を行うシステムを作った。「学校突然死予防の手引」はこうした藤原会長の思いを込めた労作で、死の直前に上梓された。
藤原会長の残る任期中の業務は永山副会長が代行した。