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コラムNo.3

私はどうして医師になったか

医療法人大本眼科医院
  大 本 佐 和 子

眼科医会の役員や県医師会の理事を経験させていただいた数年間に、全国レベルで行われる会合に何度も出席する機会がありました。このような会合で、特に男女共同参画部会などでは、女性で世界的に活躍していらっしゃるトップリーダーの方達のお話を聞くことができました。素晴らしい活躍をしていらっしゃる方々でも、女性であるということで、差別を受けたり、何で女がこんなところにいるのか等と言われて、傷ついた経験をお持ちであることに特別の感慨を持ちました。私自身も最初に入局した時に当時の医局長に、「女ばかり入ってくるから男性が入ってこない」と言われてとても嫌な思いをしたことがあります。

先日、神戸で我が女子医大のクラス会があって出席しました。40人弱のクラスメイトの20人もの人たちが出席しました。みな現役で医師として働いて社会に貢献していました。私たちの世代はまだ女性医師は非常に少ない時代でした。皆にどうして医師になったか聞いてみました。

半数以上の人が家業が医業であって(中には母親が先輩の人も)、必ずしも医師になりたくはなかったけれど仕方なくとか、親を見てなりたいと思ったという人もありました。

次は医師という仕事に興味があったという人、社会に奉仕したいからという人、何となくと言う人、等です。

では私はというと、矢張り家業が医業であった中に入ります。しかし親から医師になれと言われたことは一度もありません。

私が小学校2年生の時、当時満州国の首都であった新京(現長春)で終戦を迎えました。終戦後の大混乱は色々メディアでも取り上げられています。昭和22年頃までに混乱の中、日本人の多くが苦労を重ねて帰国しました。父は所謂「留用」ということで長春の町に家族と共に残ることになりました。多くの日本人の技術者や研究者が家族とともに混乱の中にいました。八路軍(今の中国共産党の軍隊の前身)と国民党軍(現在台湾で僅かに残っている蒋介石率いる軍隊)との内戦が起こり、長春を八路軍が包囲、昭和23年7月頃には市内には食料が全くなくなり、長春は死の町と化しました。この前後に日本人家庭の中で一家の主が家族を残して亡くなる方が多く、残された女性は子供を抱えてやむなく好きでもない中国人と結婚せざるをえなかったり、奥さんに先立たれた老人と女中代りに結婚して、私の母に泣き泣き苦境を訴える女性も何人かいました。こんな時母は何時も、「女も仕事を持っていたらこんな嫌な思いをしなくて済むのにね」と言っていました。飢死する人々が多数いた中(長春の人口の約半分が餓死したとも言われています)、自分や子供の命を救うためには仕方が無いことだったのでしょう。この体験は強烈なインパクトで私の心に焼きつけられました。

私は終戦前、父が満州赤十字で看護学校の校長をしていたのと、満州へは軍医として行っていたので、当時の看護婦さんたちが外出の時着ていた紺サージの制服がとても格好よく、「軍医殿!」といって敬礼する姿にあこがれ、大きくなったら看護婦さんになりたい、と思っていました。しかし次第に父の仕事が人に感謝される重要な仕事であるということが判り、昭和28年高校1年2学期に帰国してからは、医学部に行こうと決めました。高校の受け持ちの先生には、とても無理といわれたけれど、何とか女子医大に入学できました。女子医大の面接の時、当時の久慈学長が「ずいぶん苦労してきましたね、これなら女子医大の生活は頑張れますね」と声をかけてくださいました。不思議なことに余りに色々の混乱の中を抜けてきた私は、自分が苦労したとは思っていなかったので、「そうなんだ、私は苦労してきたんだ」と変な感慨に耽りました。

あれからもう55年、いつの間にか岡山の住人になって、開業医として36年が過ぎました。振り返ってみて、自分は医師になって良かったと心から思える今が幸せです。

若い医師を目指している方々は、どんな理由で医師になろうと思ったのでしょうか。この男女共同参画時代にあっても、特に女性医師は必ずしも歓迎されなかったり、出産育児での苦労も変わりなくあります。しかし私は医師という仕事は一生懸命仕事をすることによって、以前に比べて低下したとはいえ、感謝され敬意を払ってもらえるやり甲斐のある仕事なのは変わらないと思います。

女性が働きやすい環境も出来上がりつつあります。どうか頑張って医師の仕事を続けてください。

若い医師達が、医師になってよかったと心から思えるよう祈っております。

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