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コラムNo.7

足   跡

(医)植村眼科医院
  植 村 園 枝

私は20歳のとき韓国・仁川で終戦を迎えました。朝鮮人創立の「京城女子医専」の学生でした。

終戦の翌日学校へ行くと、「日本人は明日から来なくてよろしい」と言われ、市電に乗ろうとすると乗車拒否され、泣き泣き駅まで歩きました。この年の秋には卒業予定でした。引揚げ後大阪女子医専に転入学し昭和23年3月に卒業しました。京城入学の際には卒業と同時に医師免許証を与えるという文言があったのに、戦後は国家試験に合格しないと医師にはなれないことになり、私は第6回医師国家試験に合格しました。10ヶ月のインターンを倉敷中央病院で終えた後です。インターン生は男女合わせて26名だったと記憶していますが、昭和53年から毎年県内のどこかで集まり一時中断した年を入れて33年間旧交を温めて居りましたが、死亡その他で遂にたった5名となり、今年の7月をもって終止符を打ちました。「こんな会は見たことがない。全国でも珍しい」とお招きした先生方は異口同音に言われました。会食はなくなりましたが、「インターン23」という小冊子を有志が毎年発行してくれていますので之は当分投稿者のある限り続く予定です。

37歳まで縁に恵まれず一生独身かと内心諦めかけていたとき、患者さんから耳鼻科の女医さんが亡くなって子供2人をかかえて気の毒なのでお世話させて下さいと言われ、子供たちが可哀想で迷わず決心しました。良き伴侶を得て時代も良くなりこの辺りから苦労もなく順調に行き、眼科医院を開業しました。5年後長女を出産しました。今は高齢出産は慎重に扱われるようですが、その時自分が妊娠しているとは夢にも思わず暑いせいでこんなに体がだるいのかと思い、涼風の立つ頃診察を受けたところ「おめでたです」と言われびっくりした次第です。6時頃まで診療して11時に出産、女の子でした。1週間で退院し、10日目に診療所へ出たら、年配の方から早過ぎると言われて2週間目から出たと記憶しています。

20年前から長男が後を継いでくれたので不勉強で浅学な上に、猛烈な速度で進歩している医学について行けない私は、患者さんに迷惑をかけると悪いので1日も速く辞めねばと思って居ましたところ、4年前に大腿骨折をしてそのままずるずると辞めてしまいました。何処で終止符を打とうかと思っていましたので、よいきっかけでした。

姑に炊事一切をまかせ、その他の家事・育児も主人その他の助けを借り、あの子供の多い学校検診もどうにかこなしてきました。3人ともまっすぐに育ってくれたと感謝しています。完璧ではなかったけれど、医師となり、妻となり、親となったことはかけがえのない貴重な人生の体験であったと思います。戦地に行く男性医師に代わって女医が必要という言葉を聞いて苦手な道を選んだ私でしたが、今は之が最良の道だったと思っています。

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