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コラムNo.44

3つのL

岡山大学病院 卒後臨床研修センター
  小 比 賀 美 香 子

医学部入学後のある日、インターホンが鳴った。ドアの外には、腰の曲がった老紳士が立っていた。現役を引退した医師である大叔父だった。ドアを開けると大叔父は、はにかんだ笑顔で入学祝を差し出し、「入学おめでとう。」とだけ小さな声で言い、ゆっくりと帰っていった。入学祝には、丁寧な文字でメッセージが添えられていた。

「ドイツの人生訓には、3つのL(Lebe, Liebe, Leide 生きよ・恋せよ・悩みたまえ)があります。どうか良きにつれ、悪きにつれ、この3つのLを活かして真剣に生きてください。」

忙しい開業医であった父の背中をみて医学を志した私は、入学時、とてもうきうきしていた。初めての一人暮らし、楽しい仲間、サークル活動…3つのLを、「なるほど青春を謳歌したらよいのね」と都合よく解釈し、学生生活を大いに楽しんだ。在学中に大叔父は他界し、3つのLについては、その後あまり思い起こすこともなかった。

卒業後は内科医となった。卒後16年の間に、いろいろあった。苦しくも楽しい臨床研修、患者の死、無力感、結婚に伴う勤務地変更、専門医・学位取得、自分よりも大事な存在の出現(出産)、育児の喜び・悩み、多くの刺激を受けた海外留学、キャリアへの不安、立ち遅れる女性の地位向上への焦り、医師としてのやりがい、家族の病気、老いていく親、などなど。多くの方々と出会い、多くを学んだ。

先日、古ぼけた封筒が出てきた。中のカードには色あせた文字が並んでいる。久しぶりに読む大叔父からのメッセージだった。ゆっくり、繰り返し読んだ。なぜか涙が止まらなかった。3つのLについて記憶はしていたが、初めて真の意味を理解できた気がした。今は亡き大叔父が、私につなぎたかったバトン。長崎大で永井隆博士とともに働いていた大叔父は、勤務中に被爆して一命をとりとめ、その後の生涯を、まだ不治の病であった結核の研究・診療に捧げた。生命の尊さ、はかなさを誰よりも知っていたからこそ、若かった私に、人間の命を預かる医師を志す者として、毎日を大切に生き、何かに没頭し、そして苦悩しながら成長していきなさいとエールを送ったのだと思う。確かに、大叔父のメッセージから、無意識のうちに、私はバトンを受け取っていた。年を重ねた今、これまでを振り返れば、失敗も多く、こうしておけばよかったと思う場面も正直たくさんある。ただ、どの場面でも悩みながら、真剣に生きてきたつもりだ。これまで、よく笑い、喜び、よく泣き、怒ったが、大叔父のメッセージを今読むことにより、私が歩んできた道は、これでこそ人生だ!と納得できた。いや3つのLの意味を、私はまだ理解できていないのかもしれない。さらに年を重ねて、また読んでみようと思う。それまで毎日を大切に生きることも忘れないつもりだ。

私には今、産婦人科医を引退した、年老いた父がいる。父は所謂仕事人間であったが、医師としての父を心から尊敬している。父にも私につなぎたいバトンがあるはずである。老いていく父を見ながら、しっかりとそのバトンを受け継ぎたいと考えている。そして、疎んじられることは承知で、いつか我が子や、職場の医学生・研修医にバトンを渡そうと考えている。

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