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コラムNo.61

Family History

医療法人眼科新星会ふじかわ眼科
  藤 川 え つ こ

ここは因島、曽祖父の眠る浄土寺の丘から見える瀬戸の海や幾重 にも連なったみかん畑は、幼いときから何十年経った今でもあまり 変わることがない大好きな風景だ。田熊港からそう遠くないところ に私の曽祖父と母が過ごした場所がある。この家は築112年の歴史 を刻み、明治、大正、昭和、平成とずっとそこに静かにたたずんで いる。ここでまぶたを閉じれば幼かったあの頃、兄弟やいとこと海 水浴に行き、蚊帳をつって過ごした楽しかったあの夏休みを思い出す。そして母がまぶたを閉じればきっと、この地で初めての西洋医 として死ぬまで島の人たちのために生きた祖父の姿を思い浮かべるに違いない。

母の祖父藤原英祐(えいすけ)は明治6年(1873年)今の広島県尾道市因島で生まれた。 当時は船頭に渡してもらう離島であった。明治初期医学の中心はまだ漢方医であったから、 離島で西洋医はただの一人もいなかった。彼は意を決して瀬戸の海を渡り何日もかけて京 都に行き南禅寺あたりの医院に書生として住みつき、医師になる夢を抱いて少年時代を過 ごした。ろうそくを節約し線香の灯で本を読み、メガネはビール瓶の底のごとくであった らしい。そして上京し、明治32年東京醫學専門学校済生學舎を卒業。翌年33年(1900年) 故郷御調郡田熊村で念願の西洋医として医院を開業、自宅も敷地内にあった。英祐26歳の ことであった(ちなみに済生學舎は長崎醫學校長だった長谷川泰が西洋医の早期育成のために開校した)。因島は水田が少なく造船ブームは第一次大戦、大正3年(1914年)以降 であるので当時は貧しい患者さんが多かった。彼は医療費は取らず、わずかな魚介や農作 物をもらい診察することも多く、いわゆる赤ひげ先生のようであった。母は中学入学まで 両親と別れて因島で祖父母と暮らした。時代は太平洋戦争真っ只中、戦火を逃れるためで あった。そして終戦を迎え、この地で亡くなる数日前まで母の祖父は診療していたという。 昭和27年(1952年)、78歳の生涯であった。

母は、祖父、父の精神を受け継ぎ医師となった。まだ女医は少なかった時代、学年で7 人。女医として生きにくかった時代である。当時は卒業してからインターン制度があった。 兄を産んで翌月、産祷期に国家試験に合格。その後少し産休を取ったが、姉と私を産んだ 時はひと月たらずで職場に戻った。だからうちには住み込みのお手伝いさんがいた。母は 娘の私から見ても仕事が大好きで、ことに研究熱心であった。寝床でスタンドをつけて医 学書を読み、よく論文を書いていた。教科書の中の1行を変えたいとよく言っていた。毎 月のように全国学会に行っていて子供の頃は正直寂しかったものだが、そのパワーや情熱 は到底私は足元にも及ばない。

私はどうだろう。医師になってあと1年で四半世紀、平成10年に総社、平成14年高梁に ふじかわ眼科を夫婦で開業した。その間3人の子育てに追われたため、高梁は田村先生に お任せして軸足は子育てにやや傾いたものの、現在総社で夫婦ともに日々診療にあたって いる。忙しかったとはいえ、はたして満足のいく仕事ぶりであったといえるだろうか。若 かりし頃の母の情熱が欲しい。

さあ、いま、この目の前の家を倒す時が来た。かつて病める多くの人を受け入れてきた この建物も、112年の風雪に耐え抜いた力強さが残る反面、住む主を失ってから52年もの 歳月を経てどこか物悲しく、造船業の衰退で進む島の過疎化も重なり、私に否応なしに時 の流れを感じさせる。この最後の瞬間を見届ける為、今、母、私、次男が立っている。形 あるものはいつかは滅ぶ。そして形はなくなってもきっとその精神は何らかの形で受け継 がれてゆくものと信じている。そして今年ハタチになる長女が5代目となり医学を学び始 めている。 (追記 建物は2012年4月に解体した。)

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