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コラムNo.88

リハビリテーション科を選んで

岡山リハビリテーション病院 リハビリテーション科 診療部長 森田 能子

卒業して40年以上経っているが、立派な医者になれたかはどうも自信がない。卒後すぐにリハ科を選んで同期の仲間からは変わり者と思われたが、自分では地味だが性格的に向いていると迷いはなかった。当時岡大には、リハでは全国レベルの明石謙先生がおられ、米国留学を終えて日本に帰られ意気揚々としておられた頃でこれもラッキーだった。当時助教授だった田邊剛造先生は女医嫌いを掲げておられ、整形外科入局は無理かと周囲からは案じられたが、なぜかお許しがでて岡大整形外科女性入局第1号となった。入局の許可がでたのは田邊先生の娘さん、一恵さんと大学のテニス部で一緒に切磋琢磨した間柄だったのでうまく助言してくれたのだろう。明石先生は私の入局をとても喜んで下さり、優しく指導して下さった。まだのんびりした時代であったが、岡大中央物療部でリハ科の研修が始まった。アメリカ帰りの明石先生は、これからのリハは整形外科の得意とする脳性麻痺や脊損等のマイノリティーだけでは守備範囲が狭く、増加が予想される脳卒中の原因となる糖尿病や高血圧の知識も必要と将来を見据えておられた。明石先生は怒ると雷様のようであったが、お母様の影響で音楽の趣味があってビオラの演奏が得意で、お酒が大好きで映画や読書、落語など多趣味で話題に豊富で、人生は多いに楽しむのがよいと教わった。2年目には川崎医大にリハ科の講座ができて、そちらに教授で移られたのを機に私も川崎医大で研修することにした。入院患者には脊髄損傷や脳卒中が多かったので合併症も多く手探りしながらの毎日であった。当時脳卒中は発症後1カ月安静、入院期間半年はざらという悠長な時代で、リハを早期に始めるには他科からの強い抵抗もあり、今の常識は当時の非常識であった。川崎医大の研修から半年ほどして、現在旭東病院の長谷川寿美玲先生が血液内科は子育てしながらはきついとのことで仲間に入ってこられた。彼女は内科の知識もあり機転もきくし最高のライバルであった。その後、ニューヨークの留学から土肥信之先生が岡山に帰って来られ、半年後助教授になられて川崎医大一期生の長尾史博先生を加えて川崎医大リハ科医局が形成された。土肥先生は遊び好きで人情に厚く甘え上手で、その上整形外科の手術もこなせる器用さを持ち合わせていたので頼りになった。川崎でリハ専門医の資格を取った後、岡山の川崎病院へ1人で送り込まれた。当時の川崎病院のアメニティは言わずもがなであったし、リハ医に対する偏見もまだ強かった。当時の私の座右の銘は「石の上にも3年」であったが、22年を川崎病院で過ごした。それは女医として認めてもらうより女医を続けていくことに目標を切り替えたからだ。頼れるのは自分しかいない。が、私の専攻したリハに最も必要なのはチームワークで、医療の成果を上げるのは神の手のようなマジックハンドではなく、リハスタッフや看護の各専門職の協働と、医療だけでなく社会保障制度を熟知するソーシャルワーカーや福祉用具や建築の業者との協力あってこそだと実感した。リハ医の仕事はネットワーク作りである。医療の最終目標は元の生活に戻ることである。

さて、マイノリティーからマジョリティーへとリハの対象が転換したターニングポイントは、2000年に介護保険と回復期リハ病棟が始まった時だと思う。国の高齢者医療施策にリハはどっぷり組み込まれたわけである。誰しも必ず年をとる。年をとると運動能力は低下するし認知症も忍び寄る。人の手を借りることが増えてくる。もしかしたら起こる障害と比べて格段にニーズは高いのでうってつけの専門科とみなされた。先日の同窓会で、「リハビリを専門にしたのでまだ現役で働いています。」と皆に報告した。岡山リハビリテーション病院へ移って丁度10年になる。リハを医療の中で認知してくれた老人の回復期リハの中で働いているが、数は少ないが社会へ戻って生きていく若い障害者をリハ医として一生懸命サポートしている。社会は障害者の受け入れにはまだ消極的で、壁は大きく弱気な自分に時に腹が立っている。

明石先生そして土肥先生 天国から私の悪戦苦闘を見てくださっていますか? もう少しやれるかな~。

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