岡山県医師会

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三木知事とは

 故岡山県知事三木行治氏は、明治36年岡山に生まれ、昭和4年岡山医科大学を卒業し、病院勤務のかたわらなお勉学の志を持ち、九州帝国大学法文学部に学び、昭和9年に卒業した。その後、昭和12年に医学博士を取得、昭和14年に厚生省入省、昭和26年に厚生省を退職後、昭和26年に岡山県知事に初当選し、以後4選を果たし、昭和39年9月任期中に急逝した。

 知事就任以来、農業県岡山を近代的な工業県に脱皮させた水島臨海工業地帯の開発、蒜山観光開発などとともに、医療福祉の向上に昼夜を問わず情熱を持って取り組み、その庶民的な姿は「桃太郎知事」として親しまれた。

この熱意と功績が認められ知事在任中の、昭和39年8月31日、アジアのノーベル賞といわれるフィリピンのラモン・マグサイサイ賞を日本人として初めて受賞した。氏は、「この受賞は、県民のみんなの協力のたまものであり、三木個人が私すべきものではなく、郷土の発展と公共奉仕の精神の醸成に役立てたい。」と受賞金全額を県に寄付している。

 岡山県では、氏の人間愛あふれる「私なき献身」の精神と業績を末永くたたえ、その遺志を引き継ぐため、この寄付金と県民からの浄財を合わせ、昭和40年に岡山県三木記念賞及び同助成金交付制度を創設し、毎年、公共奉仕の精神に徹し、自ら進んで地域社会の発展に寄与した個人・団体の表彰を行っている。

 岡山県医師会は、三木知事の業績をたたえ、「財団法人 故岡山県知事三木行治顕彰会」(昭和39年10月設置)から建設費の一部負担を受け、旧岡山衛生会館(岡山市中区古京町)内に「三木記念ホール」と「胸像」を設置するとともに、遺品の展示を行い、維持管理してきた。

岡山県医師会館においてもホールの名称を引き継ぐとともに、胸像を移設、ギャラリーを設け、故岡山県知事三木行治氏の業績、人柄を後生に伝えるものである。

プロフィール

明治36年5月1日 岡山市畑鮎1739番地に生る
明治43年4月 御津郡横井小学校入学
大正5年4月 岡山市立内山下高等小学校入学
大正7年4月 岡山県立岡山中学入学
大正11年4月 岡山中学校4年修了、第六高等学校入学
大正14年4月 岡山医科大学入学
昭和4年3月 岡山医科大学卒業
昭和4年4月 岡山医科大学副手となり稲田内科に勤務
昭和4年6月 医師免許
昭和5年5月 徳島県小松島診療所医員として勤務
昭和5年9月 岡山簡易保険健康相談所医師として勤務(14年2月まで)
昭和6年5月 九州帝国大学法文学部に入学
昭和9年3月 九州帝国大学法文学部卒業
昭和12年11月 医学博士の学位を受く
昭和14年2月 保険院簡易保険局監理課勤務
昭和17年11月 逓信省簡易保険局福祉課長
昭和19年10月 厚生省健民局健民課長
昭和20年10月 厚生省衛生局保健課長
昭和21年11月 厚生省公衆保健局長
昭和23年7月 厚生省公衆衛生局長
昭和26年2月 岡山県知事選挙立候補のため厚生省を退職帰郷
昭和26年5月1日 岡山県知事に当選
昭和30年4月 岡山県知事2選
昭和34年4月 岡山県知事3選
昭和38年4月 岡山県知事4選
昭和39年8月 ラモン・マグサイサイ賞を受賞
昭和39年9月21日 逝去
正三位勲二等に敍し瑞宝章を授けらる
世界平和顕彰を贈らる
法名 瑠璃光院殿照峰仁徳浄行大居士
岡山県御津郡津高町横井上に葬る

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