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岡山県医師会の歴史

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4 永瀬正太 会長時代(1953年6月~1964年3月)

榊原会長は1953(昭和28)年4月、参議院議員に当選、議員活動に専念するため同年6月の第21回臨時代議員会で任期半ばをもって県医師会長を辞任した。1954(同29)年2月の第23回臨時代議員会で榊原会長の下で社会保障部長であった永瀬正太が会長に就いた。河田会長時代に副会長、榊原会長時代の社会保障部長として実績があり、会長の信頼も厚かった。

5期、約10年の在任中、社会保険問題の多事多難な時代であり、その改善に尽力した。

会長
永瀬正太
副会長
太田徳次郎
専務理事
加賀呉一
理事
岩佐誠一 → 河田義夫(1962年2月)
大賀寿男
笹木泰夫
氏平 繁
赤木五郎 → 児玉俊夫(1958年2月) → 平木 潔(同年3月) → 赤木五郎(1963年4月)
宇野善一 → 丹原驍夫(1958年2月) → 三宅義夫(1960年3月) → 本城明朗(1962年2月)
西井弘之 → 高木 諦(1956年3月) → 伊丹正雄(1958年2月)
牧山堅一 → 中島堅吉(1956年3月) → 光井貞八(1960年3月)
佐藤次文(新任1958年4月) → 森藤靖夫(1963年4月)
佐野俊平(新任1958年4月)
小林雅章(新任1958年4月)
藤本剛平(1958年4月) → 宮島富徳(1960年3月)
監事
石田 巌
正田明貫 → 三宅義夫(1962年2月)
社会保障部長
赤沢琢三 → 西村伊勢松(1956年3月)
同副部長
岡本寿太
福祉部長
岩佐誠一 → 加賀呉一(1962年2月)
同副部長
加賀呉一 → 笹木泰夫(1962年2月)

永瀬会長就任当時の1953(昭和28)年頃は、1951(昭和26)年公布された医薬分業法が1955(同30)年1月から実施されるに当たり、猛烈な反対闘争が起こった時期であった。実施は、ひとまず1年3カ月延期させ、1956(同31)年4月からとなった。その後も廃案を目指し反対運動は展開された。

また、医薬分業実施に伴う診療報酬体系の改革には、保険医の総辞退を賭けて反対運動を展開、健康保険法改正反対とともに国民健康保険の充実強化を要求、精力的に抗議と陳情を行った。1956年から57年に掛け中央、地方を通じ執拗に反対闘争が繰り返された。

森永粉乳砒素中毒事件

1955(昭和30)年7月頃より岡山県下で人工栄養児に限り、発熱、皮膚の色素沈着、腹部膨満、貧血などの原因不明の疾患が散見されるようになった。岡大医学部小児科・浜本教授を中心に原因究明に当たった結果、森永製菓徳島工場製の調製粉乳に混入していた砒素による中毒症と判明(8月23日)。医師会は約1万人と対象とする一斉検診を実施、治療に当たる。患者は12,131人(うち死亡130人)、岡山県2,029人(死亡24人)。患者は6~10カ月の乳児が半数を占める。安定剤として使用していた第二燐酸ソーダの中に約3%の砒素が混入していたのが原因だった。

災害福祉部の発足(1956年5月)

新生医師会設立10周年記念式。1958年1月12日、設立10周年記念式は内輪だけで行われたが、幾多の困難を乗り越えてきた10年を回顧すると共に前進への決意を新たにした。永年勤続役職員として、榊原前会長はじめ30人に感謝状が贈られた。

※岡山県医療用自動車協会の設立(1954年3月、協会長・永瀬県医師会長)。
その他、岡山県下では1959年5月、岡山対がん協会が設立(総裁・三木行治県知事、事務所・岡大医学部付属病院)。

※1959年6月の参院選では、全国区から地方区に回った榊原亨は再選ならず、政界から引退した。

武見太郎

※武見太郎が第11代日本医師会会長に就任。1957(昭和32)年4月開催の第28回日本医師会臨時代議員会で小畑惟清会長を破り、新会長に選出。以後25年間にわたり日医会長として君臨した。

医療危機突破闘争

1961(昭和36)年度の国民皆保険実施を前に日本医師会は、1960年8月、①社会保険診療の制限撤廃②診療報酬単価の引き上げ③社会保険の点数表の一本化と地域格差撤廃④事務煩雑化の是正―の4項目の要求を中山マサ厚生相に提出、その実現を強く訴えた。自民党医療対策特別委に対しても説明、日医の要望に沿う形で概ね了承した。一方、厚生省はこれらの方針を真っ向から否定する診療報酬改定案を決めた。このため、日医は、現行診療報酬があまりにも低廉であり、医療機関の経営は極度の縮小再生産を余儀なくされ、国民皆保険下での適性医療を保障することは不可能などとして、1961年1月、保険医総辞退を含む実力行使を決定、医療危機突破闘争本部を設置して要求貫徹まで闘う、とした。

岡山市公会堂で開かれた県医師総決起大会。県内各地からバスで乗り着けた(1961年2月4日)

これを受け、岡山県では同年2月4日、医師総決起大会が岡山市公会堂で開かれ、県内各地からバスで続々乗り入れ、約1400人が参集した。永瀬会長が闘争の趣旨、目的を説明した後、各参加者が意見発表、4項目を実現するため断固闘うことを決議した。日医は2月6日、統一指令による一斉休診を決定、併せて歯科と共闘することを都道府県医師会に通知した。その後、難局を打開すべく、灘尾厚生相、田中自民政調会長、武見日医会長、河村日歯会長と再三協議が持たれ、医療問題を抜本的に改善していくことなどでやっと合意が成立した。保険医総辞退は取り下げられた。

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