岡山県医師会

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岡山県医師会の歴史

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5 加賀呉一 会長時代(1964年4月~1970年3月)

1964(昭和39)年2月の第56回臨時代議員会で加賀呉一が、無投票、満場一致の賛成で会長に選出され、同年4月、就任した。加賀は新生医師会の発足に参画し、榊原(1、2次)、永瀬会長の下で十数年にわたり医師会運営に携わってきたが、帷幄(いあく)の人として自ら進んで表に立つことはなかった。その卓越した社会保障理論は日医においても一目置かれ、中医協などで活躍した。

会長
加賀呉一
副会長
川崎祐宣、森藤靖夫(新任1968年3月選出)
専務理事
佐野俊平
理事
大賀寿男
笹木泰夫
河田義夫 → 矢吹暁民(1966年2月) → 新 泰雄(1968年3月)
赤木五郎 → 小坂淳夫(1965年4月)
神崎保正
水河忠敬 → 片山太郎、藤原純夫 → 中山忠夫
小林雅章、本城明朗、西下止夫 → 宮島富徳(1966年2月)
木口浩三 → 満谷士郎(1966年2月)
藤原拓士
永瀬正己(新任1968年3月)
土井健男(新任1968年3月)
監事
石田 巌
三宅義夫 → 田淵義三郎(1966年2月)
社会保障部長
森藤靖夫 → 永瀬正己(1968年3月)
同副部長
岡本寿太 → 土井健男(1968年3月)
福祉部長
笹木泰夫
同副部長
水河忠敬 → 小林雅章(1968年3月)

加賀会長は、会員であることに誇りと恩恵を感ずる魅力ある医師会の理念のもと多彩な医師会活動を展開した。第一にプロフェッショナルとして医師の社会的評価向上に努めるとともに地域活動、特に県衛生部と一体となった公衆衛生活動を展開した。第二には病院、診療所の整備、医療従事者対策、予防接種対策、血液対策などに所謂、岡山方式と言われる改善策を打ち出し、へき地医療、救急医療の充実にも努めた。第三には日医と呼応して診療報酬の改定、保険制度の改善などに尽力した。第四は、会員福祉の向上に取り組み、福祉部などによる弔慰災害福祉制度の改善や医療融資を拡充させた。第五に県医師会館の改築がある。岡山市内の絶好の場所に岡山衛生会館の建築が着工された。

加賀会長は在任中、日医副会長辞任、中医協復帰声明という突発事件もあったが、岡山県下での広範囲な医師会活動は高く評価された。1969(昭和44)年8月、三木記念賞が加賀会長に、三木記念助成金が川崎副会長の設立した旭川荘にそれぞれ贈られた。

三木行治知事
三木行治知事

三木行治は、厚生省公衆衛生局長から1951(昭和26)年5月、岡山県知事選に出馬、当選。岡山県医師会は総力を結集して選挙運動を展開、三木知事誕生の原動力となった。知事就任後は「産業と教育と衛生の岡山県」をスローガンに掲げ、全国に先駆けて県勢振興計画を策定して水島に工業地帯を造成。次いで全国のモデルとなった福祉計画をまとめ上げた。衛生面では、1952(同27)年5月「病院の日」を制定、1956(同31)年には岡山県対ガン協会を発足させるなどした。1964(同39)年8月、その“私心なき献身”の業績に対し、「ラモン・マグサイサイ賞」を日本人で初めて受賞するが、直後の同年9月21日、心室壁破裂で急死した。在任期間は13年5カ月に及んだ。葬儀は同年10月4日、岡山大学清水記念体育館で県民葬として行われ、加賀会長が弔辞を読んだ。その業績をたたえて1968(同43)年、岡山県医師会が計画中の岡山衛生会館大ホールを「三木記念ホール」と命名した。後任知事候補として、県医師会は加藤武徳を推薦し、1964(同39)年11月12日の知事選挙で同氏が当選を果たした。

岡山県医師会館の移転、岡山衛生会館建設へ
岡山衛生会館起工式で鍬入れをする加賀会長

岡山県医師会館は、1937(昭和12)年2月、岡山市東田町23番地(現磨屋町)に建設されたのが最初。戦災で消失し戦後の1949(同24)年6月、都市計画による仮換地の天神山に再建された。業務拡大とともに改築が要請され、会館改築実行委員会が発足、準備を進めていた。1962(同37)年、岡山農地事務局(後の中国四国農政局)から岡山農林総合庁舎建設のため、岡山県医師会・岡山市医師会会館敷地と農林省岡山統計調査事務所敷地の交換の申し入れがあり、県の斡旋を受け1965(同40)年4月合意。同9月天神町の岡山医薬品株式会社ビル4階に移転、仮事務所とした。

その後、新会館適地を探していたが、1967(同42)年、岡山市古京町の建設省公舎跡地に建設することが決定、1969年度になり、県医師会、同成人病センター、岡山市医師会、同看護学院、同臨床検査センター、県血液配給センター、岡山対ガン協会、県病院協会などが入居し、三木記念ホールを擁する岡山衛生会館と隣接の県岡山保健所、県衛生研究所の入居する合同庁舎を設け、県保健センター設置構想を実現することが決まった。名称は「岡山衛生会館」。設計は国建設事務所、施工は入札により地元の荒木組に決まった。計画では鉄骨・鉄筋コンクリート造り地上6階、地下1階建て、636席の大ホールを備える。1969(同44)年12月19日、加藤知事ら出席し、待望の起工式が行われた(1971年3月25日竣工)。

岡山県血液配給センターの設立

県民による尊い献血による保存血液を県内全域の医療施設に円滑、適正に供給することを目的に既存の赤十字血液センターの配給機構に変わり、1965(昭和40)年末、新たに財団法人組織・岡山県血液配給センターが組織された。県医師会も出資金を拠出、加賀会長らが理事に就任した。

加賀会長が日医副会長就任、そして退任

加賀会長は、中央社会保険医療協議会(中医協)委員などとして活躍し、特に保険医療問題に詳しいことから武見太郎日医会長に請われ、1966(同41)年4月の日医代議員会で副会長に就任した。一層の活躍を期待したが、同年12月の武見会長の日医理事会での不可解な言動により加賀会長の中医協での努力は水泡に帰し、加賀会長は辞任届を提出するという事態に至った。

この“事件”は1966年11月、中医協で日医が13.5%の診療報酬の緊急是正を主張したのに対し、支払い側は医療経済実態調査を求めてきた。これに対し、加賀中医協委員は、行政から切り離した純学問的専門集団の調査機構(管理医学リサーチセンター)を中医協の発案で作るべきだと逆提案し、東畑中医協会長も理解を示したが、武見会長は実態調査絶対反対を唱え、加賀委員の独断を責め、12月の日医理事会で中医協の任を解いた。加賀会長は、日医副会長の辞任届を提出したが、武見会長は受理せず、1967年3月の日医定例代議員会で副会長解任が決議された。岡山県医師会と中国四国ブロック医師会は加賀会長を全面支持、日医に強く抗議したが、事態は解任決議の無効を訴える訴訟にまでこじれた。その後、和解調停により1966年12月の時点で辞任が発効していると認められ、名誉は回復された。

広報活動

1950(昭和25)年3月1日、県医師会報が発刊されたが、当初は不定期だった。1952年3月の35号から月1回(発行日25日)になり、1964年度から月2回(10、25日発行)に拡大した。

その他、学術活動では日医医学講座を岡大医学部の協力を得て、毎年2回開催したほか本会補習講座、実技講習会などを実施した▼第7回参議院議員選挙(1965年7月4日)では県医師会が推薦した全国区・山本杉、地方区・木村睦男が当選▼岡山県医師会設立20周年記念式典(1967年11月19日、岡山市民会館)。歴代会長への感謝状、榊原亨元会長の記念講演などのほか烏城では県医家芸術作品展、「目で見る医師会活動展」を開催▼高校衛生看護科の新設。1965年4月から県立倉敷中央、次いで県立津山東、私立岡山女子に併設された▼タイ国から看護研修生。1968年3月、大戦中に泰面鉄道建設に関係した倉敷の永瀬隆らが尽力、加賀会長が身元引受人となり7人を受け入れた。1972年3月、全員准看護婦試験に合格。

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