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8 永瀬正己 会長時代(1982年4月~1988年3月)

1982(昭和57)年1月の第101回臨時代議員会で永瀬正己会長が無投票で選出された。

永瀬会長は、該博な知識とリーダーシップにより緒施策が推進されたが、会員に対し保険医としての倫理を強調するとともに禁煙問題、臓器移植、脳死問題などに意を尽くし、学校保健分野でも学校突然死の防止策を行政とともに推進した。

<第1次 永瀬正己 執行部・1982年4月~1984年3月>

会長
*永瀬正己
副会長
新 泰雄、*藤原純夫
専務理事
宇野資郎
理事
田村誠一郎、岩藤嘉行、野崎達夫、太田 勉、永山克巳、近藤和二、龍治 昇、*武田一雄、*宇野忠昭、*横山元禎、*西本 詮、松田和雄、藤原 弘、浅野健夫
監事
鶴海寛治、相浦正人
社会保障部長
藤原 弘
同副部長
浅野健夫
福祉部長
田村誠一郎
同副部長
*宇野忠昭
日医代議員
永瀬正己、新 泰男、宇野資郎、大谷晴彦

(*は新任)

※1982年4月、岡山大学歯学部開学。

※同年年4月、日医会長が武見太郎から反武見路線の花岡堅而に替わり、1957(昭和32)年以来25年の長期にわたった武見体制は終焉した。また、8月老人保健法が成立。患者負担は、外来は月400円、入院は2カ月に限り1日300円、総額1万5千円までとされた。

設立35周年記念式

1982年11月14日、三木記念ホールで本会設立35周年記念式が開催された。各種表彰のほか記念講演として元厚生相・橋本龍太郎衆議院議員「行政改革と医療」、川崎祐宣川崎学園理事長「医学教育について」がそれぞれ行われた。同時に岡山県医師国保設立25周年、福祉部発足30周年の記念行事も行われた。併せて医家芸術作品展が11月8日から2週間、衛生会館5階中ホールなどで開催された。また、記念事業として、実技訓練のための貸し出し用の「救急蘇生術訓練用人体モデル」と「気管内挿管訓練用頭部モデル」を購入した。

※1983年12月20日、武見太郎前日医会長が死去。享年79歳。

※1984年4月、日医の花岡堅而執行部が1期2年で、羽田春兎(はねだ・はると)に交代した。また、健康保険法の一部改正があり、健保本人に初めて一部負担を課すこととなった。健康保険法改正は、2月法案を国会に提出、4月から審議開始。この間、日医はじめ医療界は激しく抵抗、岡山県医師会でも三師会協議会を設け共闘したが、国会会期の大幅延長、法案の再三の修正を経て8月に可決、成立、10月から施行となった。

※1984年6月、厚生省は我が国の平均寿命が男性74.2歳、女性79.78歳と、ともに世界一の長寿国となったと発表。高齢化率は9%。

<第2次 永瀬正己 執行部・1984年4月~1986年3月>

第106回臨時代議員会が1984(昭和59)年2月開催され、任期満了に伴う役員改選が行われた結果、無投票で永瀬会長らが選出された。

同年4月8日開催された第107定例代議員会で第2次永瀬執行部がスタート。永瀬会長は、冒頭の挨拶で日医会長選では吉川暉(てる)候補を推して敗れたことを陳謝するとともに羽田執行部には是々非々、求められれば協力を惜しまないと述べた。

会長
永瀬正己
副会長
新 泰雄、*藤原 弘
専務理事
*太田 勉
理事
岩藤嘉行、野崎達夫、永山克巳、近藤和二、龍治 昇、横山元禎、西本 詮、松田和雄、浅野健夫、*亀山一郎、*角南 宏、*喜多嶋昌二、*竹中 守、*内田玄桂
監事
相浦正人、*水島 淳
社会保障部長
藤原 弘
同副部長
浅野健夫
福祉部長
*新 泰雄
同副部長
*竹中 守
日医代議員
永瀬正己、新 泰男、*藤原 弘、大谷晴彦

(*は新任)

地域保健関係では、1982(昭和57)年1月から1983(同58)年3月にかけ県下で川崎病が多発。15ヵ月に男性181人、女性137人、計318人の患者となった。

第7回日本プライマリ・ケア学会が1984(昭和59)年6月8~10日、三木記念ホールと川崎医科大で柴田進同大学長を会頭、永瀬県医師会長を副会頭として開催され、全国から医師、歯科医師、薬剤師、保健婦、看護婦ら1,200人が参加した。

岡山衛生会館に開所した心電図自動解析センター

1985(同60)年、学校心電図検診の自動化と心電図自動解析センターが開所。県下では心電図検診は、1972(昭和47)年から導入され、1983(同58)年度には対象者の99.75%に当たる約75,000人に実施するという目覚しい成果をあげてきた。判読のばらつきを抑えるため自動化が課題となり、1985年4月、岡山衛生会館に解析センターをオープンした。

学校医のみを対象とした初の研修会が同年1月岡山衛生会館中ホールで開催された。同年3月、県医師会判「学校医の手引」(1部千円)も発行した。

太田専務理事らにより過去の予防接種に関する会報記事を編集した「岡山県医師会報予防接種関係記事集成」(1976~1983年)が1983(同58)年、発刊された。

岡山赤十字病院(490床))が1985(昭和60)年4月、岡山市内山下から青江に新築移転なった。

1986年4月開催された第73回日医定例代議員会で会長選挙が行われ、羽田春兔(東京)が再選された。

<第3次 永瀬正己 執行部・1986年4月~1988年3月>

第111回臨時代議員会が1986(昭和61)年2月開催され、任期満了に伴う次期役員の選挙が行われ、無投票で永瀬正己が3選された。

会長
永瀬正己
副会長
新 泰雄、藤原 弘
専務理事
太田 勉
理事
岩藤嘉行、野崎達夫、永山克巳、龍治 昇、横山元禎、松田和雄、浅野健夫、亀山一郎、角南 宏、竹中 守、内田玄桂、*堀章一郎、*森田善雄、*青野 要
監事
相浦正人、水島 淳
社会保障部長
藤原 弘
同副部長
*亀山一郎
福祉部長
新 泰雄
同副部長
竹中 守
日医代議員
永瀬正己、新 泰男、藤原 弘、大谷晴彦

(*は新任)

岡山県医政会が規約を社会情勢の実情に合わせるため抜本的に変更、名称も1986年4月1日を期して「岡山県医師連盟」と変更した。委員長に永瀬正己。

1987年4月、第114回定例代議員会が開催され、議長に大谷晴彦、副議長に佐久間昌章が選挙の結果当選、健康上の理由により任期途中で専務理事を辞任した太田勉の後任に角南宏が就き、理事に川口正光が選ばれた。また、49年にわたり事務長であった岩戸正衛が辞任、秋山修(前岡山保健所次長)が事務局長に就いた。この大会で永瀬会長は職を辞任することを表明した。

40周年記念式典祝賀会

県医師会設立40周年記念式典が1987(昭和62)年11月8日、岡山衛生会館三木記念ホールで挙行された。1947(昭和22)年11月1日、新生県医師会として発足、また県医師国民健康保険組合も30周年を迎えることとなり、この日合同で記念式典を行った。永瀬会長の式辞のほか、羽田春兔日本医師会長の「医療変革への対応」、榊原亨初代県医師会長の「医師会の発展と今後の医療対策」と題した両記念講演が行われた。医家芸術作品展(11月1日~10日、岡山衛生会館)も併せて開催。記念事業として郡市地区医師会に対しAMSキャプテンシステム(医療に関する各種の情報を中央のデータバンクから提供を受ける会員システム。端末機14万円、入会金10万円、月会費1万円)導入について入会金と月会費半分を助成することとした。

臨床検査精度管理事業として1986(昭和61)年5月に臨床検査精度管理委員会を発足させ、県内の臨床検査の精度向上に取り組むことになった。1986年度には225施設のうち128施設(57%)の参加があり、20種類の検査項目について実施。以降毎年実施され、参加施設も拡大した。各施設でばらばらであった検査方法が統一されたことで検査精度の向上に大きく寄与した。

「医事紛争の防止と処理のガイドブック」を発行(1988年3月)。医事紛争が漸次増加傾向にあることを受け編集、会員に配布された。

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