岡山県医師会

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岡山県医師会の歴史

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戦時下の医師会・中島琢之 会長時代(1940年~1942年)

1937(昭和12)年7月、盧溝橋における日中交戦に端を発して「支那事変」を誘発し、中国大陸で戦火が拡大。1938(同13)年、国家総動員法公布。時局は戦争遂行態勢へと傾斜して行った。

そうした時代背景の中、1940(同15)年10月、第28回県医師会臨時総会が開催され、3代会長に中島琢之(たくし)が選出された。

県医師会は空襲を想定し防空医事研究会を設け、戦時治療に備えた。また、空襲時、緊急出動できる厚生隊を組織。医薬品についても多くが軍需用に割かれ、内地における医薬品は次第に欠乏するようになる。1941(同16)年7月から購入券制度が導入され、あらかじめ希望品目の数量を申し出た病院に対し、県知事が発行する購入券を配布、按分配分することとなった。

1941(同16)年12月、太平洋戦争に突入。

1942(同17)年2月、医師法と歯科医師法を統合した国民医療法が公布され、従来の個人本位の医療観から医療の公共性が強調され、国策協力の義務が高度に要求された。また、時局の医療を確保するため医師会令が発令され、開業医の利益擁護を主とする同業組合的な存在を脱し、国策協力機関の医師会とした。医師会長は官選となった。

戦局の進展とともに40歳以下の会員はほとんど召集され、県内で一般診療に従事する者は40歳以上の会員のみという状態に陥った。

1942(同17)年12月、第31回臨時総会を開催、新しく発足する医師会に基金、財産、土地、建物等を引き継ぐことを決議し、中島会長時代は終わった。

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