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岡山県医師会の歴史

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11 永山克巳 会長時代(1994年4月~2000年3月)

1994(平成6)年2月、第131回臨時代議員会で役員選挙が行われ、候補者が定数であったため無投票で次期会長に永山克巳が選出された。同年4月新執行部がスタートした。永山会長は「昨年度後半は会長不在という異常事態だったが、大過なく会務が遂行できたことにお礼申し上げる。今期も医療界にとって多事多難な年となるが一致団結して柔軟、的確に対処していきたい」と話した。

<第1次 永山克巳 執行部・1994年4月~1996年3月>

会長
*永山克巳
副会長
角南 宏、*浅野健夫
専務理事
竹中 守
理事
横山元禎、亀山一郎、内田玄桂、森田善雄、佐藤亀弘、小谷秀成、川村範夫、片岡和男、岡崎邦泰、*平野隆茂、*大森文太郎、*石川 紘、*野口 敦、*増田 游
監事
水島 淳、大谷晴彦
社会保障部長
亀山一郎
同副部長
小谷秀成
福祉部長
*竹中 守
同副部長
*川村範夫
日医代議員
永山克巳、佐久間昌章、角南 宏、竹中 守、*浅野健夫

(*は新任)

岩藤嘉行、龍治 昇、堀章一郎、松尾信彦各理事は退任

1994(平成6)年4月の定例代議員会で、代議員定数の改定と勤務医の代議員会参加を認めることが承認された。勤務医が代議員に選ばれることは例外的ケースだったが、会員数の45%を占め、勤務医部会が設けられたことから改定した。

また、4月から岡山市が保健政令市となり、同市内の中央、西大寺両保健所は県の管轄を離れ、岡山市に属することになった。岡山市が県と同等のレベルで事業を進めることが予想されるため、参与職を新設して岡山市医師会長をそれに充て理事会へ参加することとし、県医師会と地区医師会との連携を密にすることにした。

※特別養子法に基づく「岡山県ベビー救済協会」が同月設立され、永山会長が顧問に就任。「育ててほしい」実親と「育てたい」養親の希望をかなえるのが目的で県医師会もバックアップ。

※日医関係では、第90回定例代議員会が1994年4月1日開かれ、村瀬敏郎会長が圧倒的多数で再選された。

1994年4月発生した名古屋空港での中華航空事故を受け、7月23日岡山市師会が「中華航空機事故での対応」とのテーマで救急医療研修会を開いた。愛知県医師会理事が、救護活動、検案などの生々しい状況や教訓、課題などを話した。県医師会員も聴講、詳報が県医師会報(1994年8月25日号)に掲載された。岡山県では、県・空港管理事務所と県医師会及び岡山市内6医師会の間で「医療救護に関する協定」が1992年10月に締結され、訓練を行った。

がん征圧月間の同年9月、ガン征圧岡山大会が6日、岡山衛生会館三木記念ホールで開かれ、約700人が参加した。守谷欣明医師(岡山市)に知事表彰、岡山大医学部折田薫三教授らに研究助成金が授与された。記念講演として「肝がんという病気-診断・治療の現状と将来-」の演題で岡山大医学部第一内科の辻孝夫教授が講演、「がん検診を受けよう」とのテーマでシンポも行われた。テレビの特番でも永山会長らが出演、がんについて啓発を行った。

阪神淡路大震災発生
家屋が倒壊するなど壊滅的被害を受けた神戸市街(写真提供:神戸市)

1995(平成7)年1月17日午前5時46分、淡路島北淡町野島断層を震源とする阪神・淡路地区にマグニチュード7.3の大地震が発生、兵庫県、大阪府、京都府など近畿圏広域で大きな被害を受けた。特に神戸市中心部はビル、高速道路が倒壊、道路、鉄道、電気・ガス・電話などライフラインは寸断されるなど壊滅的だった。死者・行方不明者は6,434人、重軽傷者4万3,700人、家屋24万9,000棟が全半壊する戦後最大の震災となった。隣県である岡山県からも多数の医療救護班が出動した。

阪神大震災への対応
1月18日
阪神大震災での救護活動
県保健福祉部と連携、岡山赤十字、岡山大、川崎医科大、国立岡山、岡山市民、倉敷中央の6病院から整形外科、外科医を中心とした医療チーム約40人を神戸市に急派。済生会は済生丸を神戸に派遣、独自にAMDAも出動。
19日
岡山県医師会に「救援対策本部」(本部長・永山克巳会長)設置。
20日
兵庫県医師会の要請を受け、インシュリン注射液(10ml)400本と見舞金100万円を事務局員が赤十字の救援車に便乗、兵庫県医師会館へ届ける。
23日
姫路市医師会から依頼された医薬品(抗生剤、降圧剤、感冒薬、精神安定剤など)を同医師会へ急送。
25日
医療相談電話(災害医療ホットライン)設置。厚生省と神戸市の要請で精神科医療救護チームが須磨保健所救護所に出動。
27日
日本医師会災害対策本部へ義援金1,500万円送付。
2月5日
神戸市災害対策本部から県医師会救援対策本部に医療班の出動要請。東灘区医療救護所で撤退する名古屋医療チームの後を引き継いでほしいとのこと。
7日
岡山市民病院(坪田輝彦医師ら3人)の第1班が2泊3日の予定で午前8時、同所に向け病院出発(新幹線で岡山駅から姫路駅→山陽線で神戸駅→高速神戸駅から阪神高速で阪神三宮駅→JR代替バスで住吉駅→徒歩で東灘区総合庁舎・現地担当者と打ち合わせ→車で午後1時過ぎ、目的地の本山東地域福祉センター到着。以下、医療班は5班出動)。
「東灘区医療救護所」は本山東地域福祉センターに設置された救護所。電気は来ていたものの水は給水車、食事は給食、トイレは仮設の共同使用。
10日
阪神大震災救援対策連絡会議を開催。会長らが状況報告、東灘区への出動経緯を説明した後、9日第2班に引き継いで帰岡した坪田医師から生々しい報告を受けた。

医療関係の被害は、兵庫県医師会所属のうち1,800施設、建物の全半壊・全半焼246施設、建物・機器の被害は127億円。兵庫県私立病院協会によると171の民間病院が被災、被害総額は251億円。公立・公的病院の被害は19病院、409億円。大阪府では104施設、119億円の被害。日医から自民党への報告によると、兵庫・大阪両府県での医療機関の被害は、民間で470億円以上、国公立病院を合わせると860億円に上った。

<第2次 永山克巳 執行部・1996年4月~1998年3月>

1996(平成8)年2月、第137回臨時代議員会で役員選挙が行われたが、定数しか立候補者がなく無投票で永山克巳が会長に再選された。

会長
永山克巳
副会長
角南 宏、浅野健夫
専務理事
*横山元禎
理事
亀山一郎(→平成9年4月、*福岡英明)、内田玄桂、佐藤亀弘、小谷秀成、川村範夫、片岡和男、岡崎邦泰、平野隆茂、大森文太郎、石川 紘、野口 敦、*末長 敦、*藤田愼一、*渡辺好政
監事
水島 淳、大谷晴彦
社会保障部長
亀山一郎(→小谷秀成)
同副部長
小谷秀成(→福岡英明)
福祉部長
*川村範夫
同副部長
*石川 紘
日医代議員
永山克巳、角南 宏、浅野健夫、*横山元禎、*森下和郎

(*は新任)

退任は竹中守専務理事、森田善雄理事、増田游理事。亀山一郎理事は任期途中で病気退任。

※日医・坪井執行部が誕生。1996年4月1日、第94回定例代議員会が開かれ、任期満了に伴う会長選で坪井栄孝(日医副会長)が、福井光寿(東京都)を抑えて新会長に当選した。2期会長を務めた村瀬敏郎前会長は健康上の理由で勇退を表明していた。

笹木泰夫元県医師会長(1976~1982年在職)が、1996(平成8)年4月25日死去。享年80歳。同27日岡山市小橋町国清寺で葬儀が行われ、永山県医師会長、宇野医師国保理事長が弔辞を述べたほか県医師会会員、近隣県医師会から多数が参列した。氏は1944(昭和19)年、名古屋帝大医学部を卒業後、1947(同22)年岡山市門田屋敷に内科診療所を開設、半世紀にわたり地域住民の医療と母校操山高の生徒の保健医療に献身した。1952(同27)年から20年間県医師会理事、1972(同47)年から副会長として会員の福祉向上に貢献。会計担当が長く県医師会、岡山衛生会館の財政基盤の確立にも寄与した。1976(同51)年会長に就任、3期6年の間、救急医療制度や地域医療体制の整備などに尽力した。県血液配給センター理事長、県医療用自動車協会長も務めた。酒席には愛用の備前焼のぐい飲みを持参して痛飲したという。

※1996年5月下旬から6月上旬にかけ、岡山県邑久郡邑久町(現瀬戸内邑久町)の小学校で病原性大腸菌O-157による食中毒が発生、468人が発症、防疫態勢が敷かれた。不幸にして小1の児童2人が死亡。邑久町学校給食共同調理場で調理された給食が感染源とされた。地元邑久郡医師会はじめ和気医師会、国立岡山病院などが懸命の治療に当たった。同年8月に腸管出血性大腸菌感染症が指定伝染病に加えられた。
なお、8月6日県医師会主催による「病原性大腸菌O-157等に関する伝達講習会」が県保健福祉部長、県担当課、県教委、国立岡山病院小児科医長、岡山大公衆衛生学教室(武田教授)、各保健所長らが出席して行われた。

※同年6月2日、岡山空港航空機事故総合訓練が岡山空港で行われた。名古屋空港での中華航空機事故や福岡空港でのインドネシア航空機事故の記憶が新しい中、航空機が滑走路で擱座、負傷者が多数出、火災の恐れもあるとの想定で航空関係者、岡山県、岡山市、警察、消防、日赤県支部、県医師会、岡山市内医師会連合など400人、車両48台、航空機1機、ヘリ1機が参加・出動した。

※川崎祐宣・川崎学園名誉理事長・学園長が1996(平成8)年6月2日、92歳で死去。遺体は川崎医科大へ献体され、学生の解剖実習に供せられた。同月3日、川崎学園現代医学教育博物館でお別れの会が開かれ、2千人以上が参列した。7月4日、川崎学園総合体育館で長野知事を葬儀委員長とした学園葬がしめやかに行われ、地元はじめ全国から会葬者が遺影に白菊を捧げた。
氏は医療、福祉、医学教育に尽力し岡山県を医療・福祉の先進県へ牽引した功労者。外科病院開設のほか学校法人・川崎学園を設立し医科大学、付属病院、付属高校、医療短大、リハビリテーション学院、医療福祉大を設立。早くから福祉にも目を向け社会福祉法人・旭川荘を設立、福祉の向上に多大な貢献をした。岡山市自治功労賞、山陽新聞賞(教育功労)、三木記念賞、岡山県文化賞、倉敷市文化賞受賞。岡山市医師会長、岡山県病院協会長、昭和39年から3期6年間副会長。昭和6年岡山医科大卒。鹿児島県出身。

※産業医や衛生管理者らの活動を支援し、労働者の健康を図ることを目指す「岡山産業保健推進センター」(岡山市下石井、日本生命岡山第二ビル新館6階)が、1997(平成9)年6月6日開所。初代センター長は内田玄桂県医師会理事。

岡山県医師会設立50周年記念式
50周年記念式で記念写真に臨む役員ら

1997(平成9)年11月9日、岡山市浜の岡山プラザホテルで岡山県医師会設立50周年記念式典・祝賀会が来賓、会員ら約200人が出席して行われた。記念式典では永山克巳会長が「戦後の混乱期の1947(昭和22)年11月1日、高い理念の下、民主的な機構に刷新された新生県医師会としてスタート。以来、幾多の困難を乗り越え、半世紀にわたり地域医療を担ってきた。医師会の使命は①会員に最新の医学知識を習得する機会を提供する②会員が研鑽、習得した医術を地域のために十分生かせる場を用意する③こうした会員の労を評価する適正な報酬を用意すると共に十分な医療が提供できるよう医療機関の財政基盤を確保することにある。物故した先輩方ときょうの感激と覚悟を新たにしたい」と式辞を述べた。

続いて地域医療に貢献した医師会、在任10年以上勤続郡市医師会長、同県医師会役員・代議員らの表彰。来賓祝辞では橋本龍太郎内閣総理大臣、坪井栄孝日医会長のメッセージ朗読、石井正弘岡山県知事、逢沢一郎衆議院議員、片山虎之助参議院議員がそれぞれ祝辞を述べた。記念事業として「岡山県医師会情報システムの構築」を行うことが発表された。同時に県医師会学術奨励賞授与・受賞者講演、さらに記念講演として川崎医科大・梶谷文彦教授が「医用工学21世紀の展望」をテーマに話した。その後、盛大に祝賀会が開催された。

<第3次 永山克巳 執行部・1998年4月~2000年3月>

1998(平成10)年2月、第142回臨時代議員会で役員改選が行われ、会長に永山克巳が3選された。同年4月1日から新執行部がスタートした。

会長
永山克巳
副会長
角南 宏、*小谷秀成
専務理事
横山元禎
理事
内田玄桂、川村範夫、岡崎邦泰、平野隆茂、大森文太郎、石川 紘、渡辺好政、末長 敦、藤田愼一、福岡英明、*広瀬周平、*井戸俊夫、*丹羽国泰、*川崎祐徳
監事
水島 淳、大谷晴彦
社会保障部長
小谷秀成
同副部長
福岡英明
福祉部長
川村範夫
同副部長
石川 紘
日医代議員
永山克巳、角南 宏、横山元禎、森下和郎、*小谷秀成

(*は新任)

岡山県医師会情報システムが1998(平成10)年2月1日から運用開始。医師会設立50周年記念事業として構築。また、同4月から岡山県医師会のホームページが開設された。

※1998年4月1日開かれた第98回日本医師会定例代議員会で役員改選が行われ、坪井栄孝会長が無投票で再選。本会の角南宏副会長が日医理事に選出された。

新泰雄元県医師会会長が1999(平成11)年7月12日死去。享年80歳。岡山市平井で行われた葬儀・告別式では坪井栄孝日医会長、鈴江襄治中国四国医師会連合委員長(徳島県医師会長)、真田幸三広島県医師会長ほか会員多数が参列、永山克巳会長が弔辞を述べ、その功績をたたえた。新氏は岡山大医学部卒、岡山市医師会理事、県医師会理事、同副会長、同会長、日医理事などを歴任した。

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