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岡山県医師会の歴史

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3 第2次 榊原 亨 会長時代(1950年4月~1953年6月)

公職追放令が解除され、1950(昭和25)年2月27日の第10回臨時代議員会で河田執行部に代わり再度、榊原亨が会長に選出された。同年4月9日の第12回臨時代議員会で榊原執行部が誕生した。

会長
榊原 亨
副会長
太田徳次郎
専務理事
加賀呉一
理事
岩佐誠一
浅羽武一 → 氏平 繁(1952年3月)
大賀寿男
関 正次
高畠正夫 → 笹木泰夫(1952年3月)
伊丹正雄 → 山名堅二(1952年3月)
牧野 博 → 牧山堅一(1952年3月)
柴田剛太 → 井手行平(1952年3月)
監事
石川 巌
鷹野 翰
社会保障部長
(初代)永瀬正太
同副部長
河原省平 → 赤沢琢三
福祉部長
岩佐誠一(1952年7月発足)
同副部長
加賀呉一(1952年7月)

榊原会長は県医師会内の事務機構の整備に意を注いだ。役員の職務分担を決め、専務理事を置き、定款を改定して社会保障部を新設、互助会を改変して福祉部事業にも取り組んだ。この第2次榊原執行部において、県医師会の基盤づくりが着々と進められた。

1947(昭和22)年4月、榊原会長は衆議院議員選挙に岡山1区から出馬、当選。1949年(同24)年の衆院選では再選ならなかったものの、1950(同25)年3月、日本医師会・田宮猛雄会長の下で武見太郎とともに副会長に就任した。日医副会長はサムス准将の日医幹部不信任事件で同年8月辞任したが、1952(同27)年2月再び日医副会長に選任された。

1953(同28)年4月の参議院議員選挙に全国区で立候補、見事当選。国会活 動による多忙で国会議員、日医副会長、岡山県会長の一人三役は困難として同年6月会長を永瀬正太に譲った。

GHQによる医薬分業問題では日医は強制実施に反対、1951(同26)年6月、第10国会で医薬分業法が成立したが、榊原・加賀コンビは、分業は時期尚早として強力に理論闘争を展開した。

また、関西医師連盟から中四国が分離独立、1950(昭和25)年7月30日に中国四国医師会連合を結成した。

1950(同)年12月、岡山県医政会という政治結社を結成。医師会が選挙に直接関わることが政治規正法で禁止されていたため、新たな組織を作り、全会員をその会員とした。医政会はその後、岡山県医師連盟と名を変え現在に至っている。

その他、「目で見る医学」展覧会を天満屋5階で開催(1951年9月)。結核委員会発足(同年)。県医師会互助会を改組し、福祉部発足(1952年8月、岩佐誠一部長)。医療関係者の職業斡旋所開設(1952年)。

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