TOP > ピックアップコンテンツ > 岡山県医師会の歴史 > 笹木泰夫 会長時代
1976(昭和51)年2月の第87回臨時代議員会で笹木泰夫会長が無投票で選出された。
笹木会長は、鷹揚な性格で役員をよく把握する一方で細やかな配慮で会員の福祉に意を注ぎ、各種の福祉制度の充実、整備を行った。地域においては救急医療体制の整備、予防接種、公害医療、看護職員対策等を推進した。
(*は新任)
公害保健対策がクローズアップされてきたのもこの頃。1950年代後半(昭和30年代)からの経済急成長期に入り大気汚染、水質汚濁などが急速に進んだ。四日市コンビナートなど大気汚染による気道疾患、八代海や新潟県阿賀野川流域でのイタイイタイ病、宮崎県土呂久鉱山の砒素中毒などがその代表的なもの。政府は1967(同42)年公害対策基本法を制定、1970年には法整備を行い、翌年環境庁を発足させた。それに伴い、救済制度が創設されていった。
岡山県では1975年、倉敷市水島地区、玉野市臨海地区、備前市片上湾地区が「救済法」の対象となり、公害医療が始まった。倉敷医師会は1971年から市内の全小学校を対象に特別健康診断を行い、報告書を作成した。県医師会でも1971年から県の委託を受け、岡山市、倉敷など各医師会に依頼して特定小学校を対象に夏、冬、公害4疾患の大気汚染健康被害調査を行った。
1969年8月から県医師会が身元引受人となりタイの看護研修生8人が来岡、岡山市や倉敷市の病院に寄宿し、看護について学んだ。研修生は、准看護婦や看護婦免許を取得した後、1976年3月帰国した。
県医師会報が1977年8月25日付で500号となったことを受け、12月7日特集号を発行した。記念座談会「医師会の将来」、会員の寄稿や郡市医師会の活動状況などが掲載された。
1977(昭和52)年10月23日、本会設立30周年記念式典が、岡山衛生会館三木記念ホールで開催された。来賓は長野士郎県知事、小坂淳夫岡大学長、橋本龍太郎衆議院議員、大村襄治衆議院議員、逢沢英雄衆議院議員、木村睦男参議院議員。式典では、榊原仟(しげる)東京女子医科大名誉教授による「社会の中での医学」と大河内一男元東京大学総長による「老人国日本の課題」と題した特別講演が行われた。岡山国際ホテルでの祝賀会では、加藤武徳参議院議員、加藤六月衆議院議員、初代会長・榊原亨の各氏から祝辞があった。併せて、医家芸術作品展が衛生会館ロビーで開催、さらに天満屋地地下ギャラリーでも「国民の健康教室展」と題する医療関係パネル展と健康相談が催された。
※中央医界では、武見太郎が1976年4月の日医定例代議員会で11選を果たした。
※中央政界では、1978年11月の自民党総裁選で大平正芳が福田赳夫の再選を阻み、同年12月第1次大平内閣が誕生、厚生大臣に橋本龍太郎が就任した。
※1978年、英国で試験管ベビー(体外受精児)が誕生、米国ではエイズ患者が発見された。
第91回臨時代議員会が、1978(昭和53)年1月開かれ、無投票で笹木会長が再選された。
(*は新任)
※1978年4月開催された日医定例代議員会で武見太郎が12選を果たした。
※1978年10月、香川医科大開設。1980年4月第1回入学式。
※1979年11月、本会会員の西井弘之元笠岡医師会長がカブトガニの研究と保護「カブトガニテスト」の開発で日医最高優功賞を受賞。本会会員では初の受賞。
※1980年2月、本会の川崎祐宣が岡山県文化賞を受賞。
第97回臨時代議員会が1980(昭和55)年4月6日開催され、第3次笹木執行部が発足した。
(*は新任)
岡山県衛生部によると、1979(昭和54)年の県下の医療機関、医師数は次ぎの通り。病院は199施設でその36%は個人、28%は医療法人。一般診療所は1,317施設で84%が個人立。医師数は、3,163人、うち病院開設者は4.1%、診療所開設者は32.9%。本会会員数は2,011人で組織率は63.6%であった。
※1980(昭和55)年4月の日医定例代議員会で武見会長が13選。永瀬副会長が日医理事に当選。武見会長は、代議員会後まもなく体調を崩し、5月入院、胃がんの手術を受け7月退院。10月再入院し胆管がんの手術を受けた。
※富士見産婦人科病院事件。1980年9月、医師免許を持たない北野早苗理事長が超音波断層診断装置を使って数年間にわたり診察、健康な女性たちに卵巣蘘腫などと称し、摘出手術を行ったことが発覚、医療への国民の信頼を大きく揺るがせた。斎藤邦吉厚相が病院から多額の政治献金を受け取っていたとして辞任した。
※1981(昭和56)年4月の日医定例代議員会で武見太郎会長が引退を表明した(退任は翌年3月。在任期間25年)。