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1988(昭和63)年2月開かれた第116会臨時代議員会で新泰雄副会長が会長に、永山克巳理事が副会長に小坂二度見、佐藤亀弘が新たに理事に当選、新執行部が決まった。新会長は、就任挨拶で「加賀、森藤、笹木、永瀬の歴代会長の下で役員を務めてきたが、諸先生の路線を継承して県医師会に汚点を残すことなく次の代へ譲ることを心がけたい」と話した。同年4月から新執行部がスタートした。
(*は新任)
1988(昭和63年)3月、岡山市日応寺に新岡山空港が開港。同4月、9年半の歳月を要した大事業・瀬戸大橋が開通した。その一方で宇高連絡船は78年の歴史に幕を閉じた。5月、ハンセン病療養所のある邑久郡長島と本土間に橋が完成、ハンセン病患者の人間回復のシンボルになった。9月、デンマーク・チボリ公園の誘致が岡山市に決まり、10月の県知事選では長野知事が5選された。
同年4月開かれた第77回日医定例代議員会の代議員会議長選挙で永瀬正己本会前会長が当選した。前夜の中国四国医師会連合常任委員会で突然立候補を要請されたが、卓越した人格、見識に加え、日医における理事、生命倫理検討委員会委員長、定款改定委員会委員長、生命倫理懇談会委員としての実績が多くの賛同を得た。会長選では、羽田春兔が20年ぶりの無投票で3選を果たした。
中国四国医師会連合総会が同年5月28、29日の両日、岡山市で開催された。日医から羽田会長、中瀬副会長、大浜方栄参議院議員ら多数の来賓を迎え、地元の中国四国各県からは役職員、総勢200人が参加した。初日は岡山国際ホテルで分科会と常任委員会、2日目は三木記念ホールで大浜方栄参議院議員と羽田日医会長の特別講演が行われた。
1989(平成元年)年4月、第119回本会定例代議員会が開かれ、大谷晴彦議長の後任に佐久間和郎代議員が選出された。新(あらた)会長は、永瀬前会長が日医代議員会議長と日医生命倫理懇談会委員、藤原弘副会長が学校保健委員会委員、野崎理事が産業保健委員会委員、浅野理事が生涯教育委員会委員としてそれぞれ参画、活躍したことを報告した。
同年5月、スポーツ医学への要求が高まっていることに対し、スポーツ医部会を発足、佐藤亀弘理事が担当となった。
※国内の大きな出来事では、1989(昭和64年・平成元年)、1月7日、昭和天皇が崩御、明仁親王が即位して平成と改元された。2月24日大喪の例が新宿御苑で163カ国の元首ら9800人が参列して行われた。本会会報は新会長の弔辞を掲載した。
※同年8月発表された1988年度の岡山県の1,000人当たりの出生率は10.6人と史上最低になった。12月岡山大学医学部倫理委員会は、脳死を人の死と認める統一見解を打ち出した。
新会長は理事時代から成人病検診・管理に尽力、特に1971(昭和46)年、衛生会館に開設された岡山成人病センターは、構想段階から係わり、完成後は県当局と提携、胃集団検診研究会、胃精密検診研究会、肺がん読影研究会などを創設、検診のレベルアップに寄与した。県内すべての病院に胃がん手術結果の報告を求め、追跡調査の分析を行うなどしてがん検診の学問的裏づけに努力した。これら一連のがん検診体系は「岡山方式」と称され、平成3年日本対がん協会賞が贈られた。がん征圧に貢献した個人・団体に贈られる「松岡良明賞」受賞。