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岡山県医師会の歴史

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官制医師会に改組・掛谷令三 会長時代(1942年~1945年)

1942(昭和17)年12月10日、岡山県医師会館での官制医師会設立総会で会則が決定。翌11日、認可申請書を橋本清吉岡山県知事に提出し23日設立認可。橋本知事は会長として掛谷令三を厚生省に推挙、厚生相より掛谷が県医師会長に任命された。

第1回臨時総会(1943年=昭和18=1月30日)で掛谷会長は「…新医師会は健兵健民の国家目的を強力に遂行する総合協力機関となり、医師が公人として医療に関する国策に協力すべき職務を明確にし、(中略)ひたすら戦時体制完成へ向かって精進すべき」と就任の辞を述べた。戦争遂行の国策に協力し、壮健な国民を育成し、戦力増強に寄与することを謳った。また、防空救援、結核予防、乳幼児保護、産業衛生、学校衛生などにも留意、協力することが求められた。

岡山県医療救護団が発足、従来の警防団を離れ会員はすべてこれに統合(団長は小泉梧郎知事)。日医の指令により無医村の挺身診療。医療関係者応援救護班の派遣訓練(1944年=昭和19=3月27日実施)。

第2回定時総会(1944年=同=3月29日)。「戦局今ヤ重大ニシテ、皇国興廃ノ関頭ニ立テリ」として医業分野において国策に全面的に協力、推進することが決議された。戦局緊迫に伴う医療機関諸対策として女子中等学校卒業者を看護婦に。1945(昭和20)年に入ると各都市は空襲にさらされ、決戦場は沖縄に移った。5月、ドイツ降伏。岡山県下でもB29の編隊が飛来し4~6月の空襲で水島航空機工場ほぼ全滅、玉野造船所が被災。

空襲で壊滅した岡山市街

6月29日午前2時30分頃、B29約70機が岡山市上空に進入、焼夷弾と爆弾を投下、瞬く間に大火災となり市街地は灰燼に帰した。県内の医療は空白状態に陥った。

県消防課の調べによると、死者1,725人、重傷236人、軽傷601人の計2,652人。家屋焼失25,196戸(全個数の66%)、罹災者104,606人、工場全焼58、同半焼11。なお、医師会会員の被害は全焼94戸、家族従業員の死亡30人。米機の来襲が不意打ちであり、広範囲に多量の焼夷弾が投下されたため消防団、町内隣組の訓練もまったく役に立たず、消火活動はほとんど行われなかった。岡山市東田町の医師会館も直撃を受け、瞬時に焼失。この大混乱にあって、午前7時より医療救護班が活動開始、焼け残りの救護所・救護病院や国民学校あるいは幼稚園に臨時救護所を開設して治療に当たる。石関町にあった県庁舎も炎上、消失を免れた内山下国民学校に医療救護団本部を移し、秋山県衛生課長、掛谷県医師会長らが詰め、各学区の救護病院を督励した。また、郡市支部医師会より多数の会員が応援に駆けつけた。

1945(同20)年8月6日、広島市に原爆が投下され、一瞬にして10万の死者と20万人以上の負傷者が生じた。岡山市は即時救護班を編成、総勢13班、延べ人数76人が出動。なお7月5日の高松空襲に1班、8月9日の福山空襲に3班を派遣した。

広島へ投下された原子爆弾は当時、新型爆弾といわれ真実の報道は隠されていたが、次第に惨状が明らかにされた。8月8日ソ連が満州侵攻。1945(同20)年8月15日、ポツダム宣言を受諾、無条件降伏。一般への終戦報道は、同日正午、天皇自らがラジオで終戦の詔勅を放送することによって行われた。

終戦直後の医療施設は壊滅状態、社会保険は名目のみでその機能を失い、医療に必要な医薬品・衛生資材は枯渇、不良医薬品が闇値で横行していた。当時の医師活動は専ら占領軍の指令で行われた。

一方、医師会にも民主化の波が押し寄せていた。戦前の旧医師会は医師会令による特別法人で任意加入の団体であったが、太平洋戦争が長期化し国家総動員法に基づき国民医療法が制定された結果、日本医師会と全国医師会は厚生大臣と都道府県知事の指揮下に置かれ、強制加入の特殊法人となった。都道府県と郡市区医師会は日本医師会の傘下に置かれ、専ら官僚的組織に改変され終戦を迎えた。

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